「最もわいせつなものは縛られた女の肉体である」
フランスの哲学者、サルトルがこのような言葉を残したと、最近見たドキュメンタリー映画で知りました。
なんにせよ、自分の欲求を満たすには他者の存在が必要になりますが、同時に邪魔なものとなるのが他者の主体性なのです。意思や自由を持たず、しかしそこに確実に存在するものこそが、対何かにおける、一番具合がよいものだと、簡単に解釈してみます。
縛られた女と聞くと特異な状況のように感じられるかもしれませんが、私たちは常に知らないうちに縄で縛られた女になったり、誰か・何かを縛られた女に仕立て上げたりしているのではないでしょうか。(ここで縛られた対象が「女」といわれていることについて、性を強者弱者で分けているのではない、あくまで私はそう解釈しない、ということをここに明記します。)
ここでは、言葉における見えない縄について話したいと思います。
言葉というものは、人間の主体性を強く出し、意思を伝えるにも有効でよく使われるもののように思われます。そのように認識してみようとして、さて、振り返って見てみると、どうでしょうか。
はあ、なんか飽きてきました。
このブログは、簡単なことをわざわざややこしく書いてしまっているようなゴミです。鼻かんだティッシュを開いてまじまじ眺めるようなことはしない方がよい。
そこに残した言葉というものは、それ自体に流動性が備わっていません。そこに置かれた新聞紙と、野生のハクビシン、どちらが捕まえて自由を奪って自分の思うようにしやすいですか?答えはもちろんフライパンです。
とにかく、私たちは簡単に他人の言葉を縛って形も自由に変えて自分のエゴを押し付けることができ、「対象を知りたい」という欲求も自分の中では満たすことが可能です。意識せずとも、また、相手にも気づかれずとも。他者は基本、というか然るべき姿?は、流動、自由(どこかで誰かに縛られていても私たちは主体性を持ってると思いながら生きていけます)だと考えます。私の言葉は、あなたにとっては私。あなたの言葉を、私はあなたにしてしまう。でもきっとあなたも私も本当は違うところにいるでしょう。無責任な言い草になってしまいますね。
この文章は、誰かが私を縛り付けるのには十分な素材です。そしてこれは、縛られたサルトルの言葉の肉体そのものになっているでしょう。
じゃあ、どうしろってんだい!
ここで縄の是非は言及できません。事実、人間の根底にそれがあるということを認めたり抗ったりするかは、私たちの自由だと思います。自由って自分の望んだところにはないことが多いかもしれない!( こう言えてしまうのは、厚顔無恥な贅沢者故でしょうか)演劇はその狭間で泳いだりつぶれたりしている気がします。この公演の稽古に参加する演出陣と役者たちは、この泳ぎや潰れにも真摯に向き合って作品をつくっている人たちだと感じます。身内贔屓ではなく!よく皆が眩しく見えます。とても面白い作品をお届けできると思います。お気にかけてくださると幸いです。
あ、実は私も役者として参加します!たかぎです!
やはり私は、通じ合いにはまなざしの交わりが大事ではないかと思います。見知らぬ誰かと、目と目を合わせて出会える日が待ち遠しいと思うようになりました。それまで、いろんな楽しみをとっておきたいです。
講釈たれた文章になってしまいました。全然確信がないままゆらゆらと書いてます。でもトランスを観てほしいという気持ちはマジ!ここまで読んでくださり、ありがとうございます。(いや長いくせに終わらせ方が雑ゥ!cv粗品)
劇団木霊2020年本公演「トランス」
主宰|菅原茉利奈
作・演出 | 弁象庵
Coming soon....
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